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 花は生まれ、咲き誇り、やがて枯れる。その一瞬一瞬の生命の輝きを捉え、形にする杉謙太郎の花。

 

 書は、紙や墨、土、木、膠、糊、自然から授かった素材を通じて、その循環と息吹を描き出す南岳杲雲の手業。

 

そのふたつが、土という豊かさの響きの中から芽吹き、また新たな世界を生み出す。

 

 この展覧会では、自然の力強さと儚さ、そしてそこから生まれる新たな命の語りを、花と書という異なる表現で描き出します。

これは、素材の持つ生命力そのものを見つめ直し、新しい価値へと昇華する試みといえるでしょう。

 

互いの視点が交錯することで生まれる対話。書家が花を見つめ、花人が書を見つめるその瞬間に生まれるのは、伝統を踏まえながらも現代の息吹を宿した斬新な表現です。それは古典の影を引きずるのではなく、生命と自然への深い感謝から未来を紡ぎ出す挑戦でもあります。

 

「自凝自然」じぎょうじねん

花と書が奏でる新たなヴィジョンを、心で聞き、眼前に現れ出た命の鼓動を共有していただければ幸いです。

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2025/3/20 - 4/27

杉謙太郎

陶作品展「自凝」

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2025/4/26

杉謙太郎

花会「葦原国花」 

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2025/4/29 - 5/6

杉謙太郎、南岳杲雲

「自凝自然」

公開制作

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人間が窖(あなぐら)で生活をするところから、住まいを自ら建てるようになった時、まずは大地を掘ったであろうか。それは、土が動物や植物の死骸から出来ているというように、人は土から生まれ、やがて土へと還るという事を自然と知っていたからなのだろうか。縄文人が犬を狩の相棒として大切にし、死後は埋葬して花を供えたという事を、出土した土器の中に残された花粉が証明しているという話を聞いて、驚いた。同じく、人間を送る時も穴を掘り、生まれたままの姿で土へ還した。私は死者を葬るように、そして花を手向けるように穴を掘る。穴を型として、大地をスキャンするように粘土を使って大地の内側にあるものを捕え、成形する。そうして花器が出来上がった。特にそれ以外の考えはない。花のための墓、花塚が生まれた。  杉謙太郎 ​

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2025/4/26(土)
杉謙太郎花会「葦原国花」 アシハラクニノハナ

会場:淡路夢舞台公苑温室「あわじグリーン館」
安藤忠雄設計 温室
13:00 - 15:00



入場時に入館料750円がかかります。

花博企画  花会 葦原国花 アシハラクニノハナ  古事記日本初期などの神話に、日本の国土を葦原国(あしはらのくに)と表記があるのは、日本が島国であり、湿地帯の広がるクニの始まりがあったからで、人類が海を泳ぐ動物であった時代から、徐々に浅瀬域で生息する事を可能にしたのも、葦という植物のおかげであり、両生類として徐々に陸へと歩みを進めた。やがて陸へ上がり、洞窟などに身を寄せるようになり、穴を自ら堀り、屋根をのせるのに使用した素材も、水に強いイネ科の植物であった。 淡路島のイザナギとイザナミの国の始まりを伝える神話に登場する「葦原国」の葦とは、人類が生息するための場、雨風をしのぐための重要な道具だった。その植物が一面を覆った葦原は、他の植物はあまり繁茂しないために、名の通り「葦原」となる。 葦は哲学するという話もある。 「パンセ(pensée)」はフランス語で「思考」の意味である。 有名な、パスカルの著書でもあり、それを引用すると「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。  だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。」 — パスカル『パンセ』前田陽一、由木康訳、中公文庫ー ここには単なる植物ではなく、葦には特別の情が有ると表現されている。 「考える」事ができるのは、人間だけだという事だが、葦のように一群を為し、どこまでも広がる葦原はただの一本の、か弱い草ではなく、哲学する集団なのだということになる。 同じように日本人は、情を持たないはずの草木に、情が有るのだと考えてきた。 国土の始まりに群生していたからだけではなく、イネ科植物の葦にはまるで思考する力があるように見受けられた。色のない漠々とした景色「葦原国」には、目に見えない美しい内面世界が広がっている。 淡路島の建築家安藤忠雄氏の設計でガラス張りの日本最大級の温室には、世界中から集められた植物達が生育している。ここが今回の花会会場となる。 植物には足はない、だから一人でここに歩いてやってきたのではなく、人間が運ばされたという事になる。 植物達が思考をしている。その考える草のために人間が動いているのは、目には見えない草の思考によるもので、温室の空間はさながら哲学者達の集う神殿のようにも感じる。 私は、哲学の神殿に祭壇を設ける。 その白い祭壇の上に、花を産みだす。 花は、一度斬られたために命を落としたものであるが、この祭壇の上において「ヨミガエル」黄泉帰ヨミジガエリ、つまり蘇生する。 そのことが、花の原義である。 花とは、息という光を見つける事であり、または崎の先という未来を目指すことでもある。その事で、今という瞬間から未来へ向けて、瞬間を機に発動し、有機的な流動が始まる。  この植物の温室の空間全体が思考を始め、未来へ向けて、動きだすその最初の一点に、花を付けたいと考えている。 杉謙太郎

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2025/4/29(火・祝) - 5/6(火・祝)
杉謙太郎 南岳杲雲 公開制作「自凝自然」

会場:土のミュージアム
Open 10:00 - 17:00 Close 火・水
入場料 500円

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2025/4/29(火) - 5/6(火)
南岳杲雲 作品展「自然」

会場:土のミュージアム
Open 10:00-17:00 Close 火・水
入場料 500円

​人は土と共に生まれ、土へと還る。大地は、命の循環を支える基盤であり、無数の生命の記憶を抱き続けている存在である。私たちが足元に感じる土、その中には過去の記憶と未来への兆しが眠っている。 今回の展覧会では、「生と死」、そして「自然」をテーマに、土という素材と向き合いながら、生命の本質を探求した作品を展示する。土を掘り、削り、形作る行為は、単なる制作ではなく、大地に刻まれた命の痕跡を呼び覚ます試みでもある。その行為は、私たちが自然と一体であるという原初の感覚を呼び戻す道筋を示している。 土には命の記憶が宿り、そこに触れることで、私たちは生きることの意味や、やがて迎える死の姿を見つめ直すことができる。人が大地に埋葬されるように、土は生と死の狭間を繋ぐ場所であり、そこには静かに息づく循環の力がある。 私の作品は、土そのものが語る物語を形にしようとする試みである。人類が長い歴史の中で培ってきた命の記憶、その一部を掬い上げ、現代に生きる私たちへ問いかける。私たちは自然の一部であるという真理を忘れてはならない。 この展覧会が、訪れる皆様にとって、生きること、自然と共にあることを考えるひとときとなることを願っている。 ​ 合掌 Nangaku Koun 南岳杲雲

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2025/5/21(水)
杉謙太郎花会「自凝島花」 オノコロジマノハナ​

会場:土のミュージアム​
花 杉謙太郎 書 南岳杲雲 音 梶原 徹也

18:00 - 20:00

花 杉謙太郎 書 南岳杲雲 音 梶原 徹也による共演 ​ オノコロジマノハナ 古事記では、イザナギとイザナミが、天沼矛(アマノヌボコ)で大地をかき混ぜ、おのごろ島が生まれたとされている。自ら凝り固まりできた島を自凝島(おのごろじま)と呼び、自凝と書く。 そして、自ら然りと書いて自然(じねん)と書く。 おのずからあるがままに、あるがままの姿をそのままの花で表現したいと思う。 花の本性、花の出生を見つめて、いまここに現したい。 ​

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